「根津ぴあのコンサート」に寄せて

音楽評論家 真嶋雄大

極めて興味深いコンサートである。「根津ピアノ」を、記憶の片隅に残しておられる方も多いだろう。けれどもピアノは基本的に消耗品である。70年以上を経たピアノが楽器として十全な機能を維持していることはあり得ない。ところが身延町や内藤楽器など、関係者の尽力によって今回見事に蘇ったという。

身延は現世と往古、そして洋の東西が行き交う格別な空間でもある。志村泉という名ピアニストを得て、その特有の響きが時空を超えて心を打つ。

修復された根津ピアノについて

内藤楽器株式会社 専務取締役 内藤貴氏

本コンサートにて使用されるピアノは昭和6~7年に製造された「ヤマハピアノ No.1」モデルで、身延町の旧大須成小学校に眠っていました。象牙製の鍵盤は85鍵と現在のピアノから3鍵少ない仕様(最高音がラ(A) 88鍵ならド(C))となっております。19464という製造番号から本格的に国産のピアノ製造が開始されて約30年が経過した時期のピアノですが、それでもなおピアノはとても高価で貴重なものでした。

根津ピアノとは、根津嘉一郎氏が寄贈したピアノに付けられた尊称であり、ピアノ自体は特別な仕様や生産を行ったものではありませんが(この時代のピアノ自体が特別なものであったと言えますが)、この当時の金額で約600円、現在の金額では約300万円と考えられる「ピアノ」が当時の学校に贈られた際の生徒さんの驚きや喜びは想像に難くありません。日本楽器製造(現ヤマハ)が当時世界のピアノ生産の中心である欧州のピアノメーカーベヒシュタイン社から技術者シュレーゲルを招き、昭和4年頃までピアノ製作の指導を受け、更なる楽器としての質の向上を図った頃のピアノらしく、良い素材・職人による手造り、しっかりとコストをかけて造られたピアノであることが支柱の太さ・響板の材質など様々な点から伺われます。

現代のピアノは華やかで輝かしい音色が主流となっておりますが、弊社技術主任石合はこのピアノをお納めする際の点検時にこのピアノが持つ音色を素直に活かし、まろやかな優しい音色にて調整しております。製造からすでに70年余を経過したこのピアノは様々な幸運に恵まれ、比較的保存状態が良く修復の上でも当時の音色を再現するにあたって重要な部位「響板(ピアノの心臓部となる共鳴板)」「支柱(弦の張力を支える柱)」「フレーム(弦の張力を支える鉄骨)」を当時のまま活かすことができました。

本日は根津嘉一郎氏の故郷を想う温かく優しい気持ちが、ピアニストによって皆様の心に運ばれることを当時このピアノをお納めさせて頂き、今回の修復にも携わらせて頂いた弊社として、心よりうれしく思います。

演奏者紹介

ピアニスト 志村泉

志村泉東京生まれ。山梨の伝説的尺八奏者であり、琴古流尺八逸漣会初代家元、池田逸漣を祖父に持つ。また、今年1月に逝去された卵殻モザイク画作家の桑原(橘田)浜子さんは大叔母にあたる。東京藝術大学付属高校、同大学音楽学部ピアノ科、同大学院卒業。松原緑、伊達純,M・ムンツの諸氏に師事。在学中に「クロイツァー賞」を受賞。卒業後、オペラ小劇場「こんにゃく座」の活動に参加するなど、ピアニストとしては異色のスタートを切る。

1979年のデビューリサイタル以来、林光の作品を多く初演するなど、バロックから現代までの幅広い作品を独自の視点で取り上げ、数多くのリサイタルを行う。近年では《前奏曲の森のかなたへ》(1995年)、奏楽堂での二夜にわたる《ベートーヴェン三大ソナタ・久野久に捧ぐ》(1998年)、《志村泉プレイズショパン》(1999年)、《バッハをめぐって》(2000年)《嘆きの歌ではなく》(2005年)、《ふたつの音風景》(2006年)など。1988年には“ピアニストとしての優れた現代音楽演奏”に対して、「中島健蔵賞」を最年少にて受賞。

1988年以降「ソビエト国際音楽祭」「中央ヨーロッパ音楽祭」への参加など海外での演奏も多い。国内では毎年全国各地でソロ・リサイタルを行うほか、最近ではチェコのヴァイオリニスト、インジフ・パズデラ氏とのデュオ、ピアニストの舘野泉氏とのデュオでも注目された。また、1998年よりナチスによって命を奪われたユダヤ人作曲家、ウルマンやクラインがチェコ・テレジンの強制収容所の中で作曲した作品を数多く演奏。2000年5月、テレジン市に招かれ、日本からテレジン市に贈られたピアノのオープニング・コンサートを行う。「テレジンにピアノを贈る会」に協力した874人の日本人を代表して、テレジンの名誉市民となる。2006年より、子どもたちの感性に音楽を届けることを意識したコンサート「音楽の森」の活動、また地元での「武蔵野の四季」のコンサートシリーズを開始。

独自の視点を持った幅広い活動が、高く評価されている。2008年3月にはニューヨークのカーネギーホールにて、日本を代表する作曲家・一柳慧の3作品を演奏。聴衆に大きな感動を与え、オノ・ヨーコさんに絶賛される。

ホームページ http://izumi-shimura.com/

根津嘉一郎

年譜

1860年 万延 元年 東山梨郡聖徳寺村の根津嘉市郎の二男として出生
1891年 明治24年 31歳 山梨県県会議員。
1899年 明治32年 39歳 東京電燈(現:東京電力)監査役。
1904年 明治37年 44歳 衆議院議員に当選、以後4回当選。
1905年 明治38年 45歳 東武鉄道社長。
1906年 明治39年 46歳 日本第一麦酒(現:アサヒビール、サッポロビールの一部)社長。
1908年 明治41年 48歳 館林製粉所(現:日清製粉)社長。
1909年 明治42年 49歳 渋沢栄一を代表とする渡米実業団に加わり、全米53市を歴訪。
1911年 明治44年 51歳 東京商工会議所会頭
1912年 明治45年 52歳 高野鉄道(現:南海電鉄)社長。
1922年 大正11年 62歳 旧制武蔵高校(現:武蔵大学)設立。
1923年 大正12年 63歳 富国徴兵保険相互会社(現:富国生命)社長。
               笛吹川に鉄筋コンクリート製の根津橋を建設。
               山梨高等工業学校、山梨女子師範学校及び高等女学校敷地寄付。
1926年 大正15年 66歳 貴族院(現:参議院)議員。
1927年 昭和 2年 67歳 東京地下鉄道(現:東京メトロ銀座線)取締役、後に社長。
1932年 昭和 7年 72歳 郷里平等村、万力公園に寿像が建てられる(戦時中に軍に供出)。
1933年 昭和 8年 73歳 山梨県下各小学校へピアノ、人体模型、顕微鏡、ミシン等を寄付。
1939年 昭和14年 79歳 親善使節としてブラジル、ウルグアイ、アルゼンチン各国を訪問
1940年 昭和15年 80歳 逝去。